今回はエッセイです。思うことをつらつらと書いています。テクニカルな話ではありません。 オンデマンドとは最近アタマの中に「オンデマンド」という言葉がよく出てくる。On-demand とは直訳すれば「要求に応じて」ということで、何らかのサービスでよくつかわれる言葉。サービスで使われる場合、「顧客の要求に応じて」ということになるので、転じて顧客が好きな時にサービスを受けられることを意味する。契約すれば好きな映画やドラマといったコンテンツ動画が、見られるものが一般的にオンデマンドサービスとして、知られている。 ふと、「オンデマンドの反対ってなんだ?」って思った。適切な言葉が思いつかなかったんだけど、例えば今でもテレビ放送はオンデマンドではない。事前にスケジュールされた番組表に従って、コンテンツが流されている。ラジオも放送自体はそうだけど、radikoは、1週間以内であれば好きな番組が聴けるので、期間限定のオンデマンドサービスと言える。だとすると、決められた時間に流されるコンテンツは、オンデマンドではないと言える。定時放送とでも言えばいいのかな。 次に新聞とニュースサイト。両方とも好きな時に見れるわけだけど、新聞はオンデマンドとは言えない。ニュースが限られているし、知りたくない(興味のない)情報もある。ニュースサイトの方がオンデマンド感が大きい。なんでだろう?と思ったら、入り口かもしれないと思った。ニュースサイトは検索して、知りたいニュースをピンポイントで見るのに対して、新聞は検索ができず、1面から順にパラパラと紙をめくって、読んでいく。もちろん飛ばしてもいいわけだけど、自分の興味のあるニュースが必ずそこにあるということは約束されていない。 つまりオンデマンドとは、ユーザーが欲しいもののみピンポイントで好きな時にゲットできる(サービスを受けられる)ことを、現在では意味していると思われる。 キュレーション、SNS、マイクロコンテンツその意味ではキュレーションサービスやキュレーションサイトは現代において理にかなっているのかもしれない。キュレーションとは特定の情報を収集して整理することを差す。グノシーなどがキュレーションサービスである。今では、ユーザーの好みを蓄積して、それに合ったニュースや情報のみを表示するようになっている。SNSも同様だ。Twitterなどはタイムラインと呼ばれるけど、自分のタイムラインには、自分の関心のあるツイート、フォローしている人のツイート、フォローしている人がリツイートしたものが優先的に表示される。使えば使うほど、そうなっていくのが当たり前の仕様である。Facebookも同じような仕様だ。共通しているのは、自分が好意的に反応した人や直接メッセージでやり取りした人がやはり優先的に表示される。 マイクロコンテンツという考え方も同様である。2000年代くらいまでは、CDを購入したり、レンタルしてダビングして、好きなアーティストの音楽を楽しんだ。現在では、便利な音楽配信サービスがあり、好きな時に好きな曲を声で指定して、聞くことができる。そこから購入もできるが、多くの人が1曲単位で購入するということをよく聞く。私は必ず聞きたい曲が入っているアルバムを買う。が、アルバム単位で買う人は少なくなってきているらしい。つまり、曲のバラ売りなわけであるが、こういうピンポイントで好きなコンテンツのみを手に入れられることを「マイクロコンテンツ」という。Twitterもこの考え方に近い。とあるツイートは非常に良かったが、かといって、その人自体を必ずしもフォローするわけではない。 それらが導く危険な状態さて、ここまで「オンデマンド」という言葉から派生して、考えてきたんだけど、これらはひとつの危ない状態を作りうる。ユーザーは自分の好きなものにしか触れられなくなるという状態だ。しかも、ユーザーはそれに気付かない。気付く術がないのだ。そして、非常に狭い範囲の情報に限定され、どんどんと自分の世界が狭くなっていく。どんどんとバカになっていく。自分が知っていることが世の中のすべてだと思うようになる。政治、経済、法律、社会、スポーツ、文化、芸能、歴史、保険福祉、世界情勢など、すべてに興味があるならば、その人の世界は狭くならない。が、そんな人はいない。 もしそうだとするならば、子供の頃によく言われた「新聞を読みなさい!」は、この2020年こそ、必要なことなのかもしれない。新聞には興味のないことも書いてある。とりあえず、読んでみる姿勢が必要かもしれない。食わず嫌いはやはりよくないようだ。 ただこれについても、一概に言えないなと思うことが最近あった。 何を信じればいいの?それは大手の新聞社の記事が、完全なるデタラメだったのだ。その新聞社の公式Webサイトの記事だったが、明らかな嘘で構成されていた。なぜ嘘とわかったのかという経緯を書きたいわけじゃないので、詳細は省く。ここで言いたいのは、誰もが絶対的に信じてしまうくらいの新聞社が、完全なるデタラメを公開することがある、ということだ。週刊誌ではなく、誰もが知っている新聞社だ。自分の世代が大学受験生の頃は、絶対読んでおきなさいと言われていた一紙である。 つまり、知りえた情報の真偽を自分で判断することがすべての人に求められているということだ。ひと目で信じてはいけない。絶対的に信用が置ける人がSNSで流している情報でも、信じてはいけない。その人がどういう精神状態かわからないし、人間は間違えることもある。またどこかのニュースサイトの記事ならば、ツイートした人に悪気はなく、記事そのものが誤報ということもありうるわけだ。 そう、情報過多で氾濫しているこの2020年は、それらすべての判断をひとり一人が行わなければならないのだ。まったく疲れる時代になったものだ。 判断する力、考える力「あなたは、十分な知識に基づくそんな判断力を備えていますか?」 これに自身を持って、Yesと答えられる人はそうそういないと思う。日本は未だに失敗を許さない文化が蔓延っていて、すべての事象に唯一絶対の解があると信じている。ミスを見つけたら徹底的に叩く。政治も芸能界もスポーツ界も経済活動においても、そしてボランティア活動においてさえも。中心人物が個人であっても叩く。精神的に危険な状態にまで平気で追い込む。取り返しのつかない状態になったら、スッと何事もなかったかのように引いていく。そもそも我が事じゃないんだったら、騒ぐなよって思う。 与えられるのが当たり前になってしまった現代では、自分でモノを考える力が著しく衰えている。すぐ思考停止に陥る。すぐ誰かを頼る。にもかかわらず、ちゃんと感謝を伝える、褒める、称えることができない。違うということを伝える術を持っていない。異なる意見を言ってはいけないと思い込んでいる。だから議論が成り立たない。議論ができない。議論=喧嘩だと思っている人のなんと多いことか。 「どうよ?日本ってすごくない!?」ってドヤりたい願わくば、この異常な現代日本をあと数年で終わらせたいですよね。みんなが前を向いて、誰かがミスったら、「どんまい!こうすればどうよ!?」って、みんなで前に進みたい。僕は現状の日本でもいいところがいっぱいあるから好きだけど、もしそんな前向きな日本だったら、もっともっと大好きになるんだけどなぁ。そして、2020年の子供たちに、「どうよ?日本ってすごくない?」って、ドヤ顔したいよなぁ。。。
0 コメント
|
AuthorYugo Shimizu 株式会社セカンドファクトリー在籍。アーキテクト。主にマイクロソフト系技術を使っております。C#、.NET、SQL Server 等。最近は Power BI や IoT, Web API 等に興味あり。
このブログは IT を普通の人が使えるものにする 民主化 をテーマにしています。 Archives
10 月 2020
Categories
すべて
|